「しない・できない」の価値

人と会って話すこと。
業務を遂行すること。
SNS等で発信すること。
作品を作り披露すること。

「生産性が高い人=価値のある人」

こんな等式が当たり前のようにあちこちで掲げられているような気がして、私は正直疲労困憊であります。
もしかしたら本当はそんな気がしているだけで、実際全ては私の妄想で、勝手にジタバタともがいているだけなのかもしれないけれど。

そもそも生産性ってどう量るのよ。経済とかよくわらないわよ。
生産性が高いって、一体何をもって生産性が「高い」と言えるのよ。
その人の「価値」ってだれに決める権利があるっていうのよ。
仕事の効率が悪くて、一定期間内で目に見える業績あげられなかったら、私は価値のない人間なのか?そうなのか?え??等という疑問が湧き上がっては消え、悲劇的というよりは半ば滑稽な姿でベッドに倒れ込む日常。


「する自分」と「在る自分」

昔どっかで読んだ概念ですが、誰だったかな。

活動し、関わり、貢献し、何かをわかりやすく生みだす「する自分」。
すべての役割やスキルを削ぎ落とした後に残るシンプルな「在る自分」。
この二つは二項対立という訳ではなくて、「在る自分」というベースがあって、その在る自分が何かを行うことで「する自分」が生まれるという階層的な概念だったかと。

沢山の人と関わり、仕事に取り組み、パフォーマンスすることを続けていると、一見華やかで、カッコ良くて、頑張ってるね!活躍してるねと!認めてもらえる。
それはそれで嬉しいものだし、私も無理矢理やらされている訳ではないので、素直にもっと頑張ろうと思うのも事実。
応援してくれる人達のありがたみはズシズシと感じております。あぁ本当に。

職業上の価値や、社会的な役割を遂行するという文脈の中での私の価値は、やはり自分ではない誰かによって定められるものだと思います。
需要に対して供給できるものがあるのなら、社会的に価値が与えられるし、供給できるものがないのであれば、その社会の中では価値は与えられない。
自然なことだと思います。
私の中の「する自分」への評価や価値は自分では決められない。
ただひたすら浴び続けるようなもの。そこに良いも悪いもない。


止まれ
なんか文字ばっかりだと苦しいから挿絵的な何かが欲しいというただそれだけの理由で選ばれたとある京都の路上の写真

「しない自分」

我武者らに活動しまくっていると、ある時、私は何もできなくなる時期を迎える。
「しない自分」というか、「することができない自分」というかなんというか。
ただ毎日起きて、支度をして、仕事して、帰って、ご飯食べて、お風呂に入って、寝る。
ただこれだけのことが、こんなにも大変なのかというくらい、ただ生活するだけでいっぱいいっぱいになる。
誰かに会って話しをしたり、SNSに投稿したり、作品を作ったりすることも億劫になり、心理的にも物理的にも引きこもっていく。

恐らくこの時期は、基盤となっている「ある自分」が、肥大した「する自分」を支えきれなくなったタイミングなのだと思う。
そしてここで私は社会的な価値を一時的にでも失うことになる。
何かを「する私」から離れて、ただただ「存在するだけの私」と向き合うこととなる。
もちろん生活に最低限のことは必死に「している」訳ですが、これが、結構、辛い。

なぜ、辛いか。

それは社会的な価値を失うことが、
自分の人間としての価値を失うことに直結している、と、どこかで思いこんでいるからなのではないかと、推察いたす。


「ただただ存在する」

誰に褒められなくとも、
誰に認められなくとも、
ただただ存在する事は、誰かの許可を必要とする事なのだろうか。

例え踊れなくなっても、
例え仕事ができなくなっても、
例え言葉を交わすことができなくなっても、
例え自分の足で歩くことができなくなっても、
例え視界がぼやけ、記憶が宙を漂い、
誰かの手を借りずして生命を維持することすら難しくなっても、
私が存在することは、誰かの承認を得る必要なんてどこにも無い、私に与えられた無条件の権利であると。


「在る自分」の社会的価値

逆説的かもしれないのですけれど、ただただ在ることには、とても社会的な価値があると思うのです。
さっきと話が違うじゃないかというツッコミも想定しつつ、求められていることに応える以外にも、社会的に価値のあることはあるんじゃないかと。
私は私で在ることを介してしか、何かを届けることができないと感じているのも、そうどこかで信じているから。

こうして文章をしたため、不特定多数を相手に投げかけるというある種生産的で社会的な活動をしながら、この「書く自分」はただただ「在る」ことしかできない私の現れであると、
「在り続ける」ことは力強い「活動(すること)」になり得るという、矛盾に出くわす。いや、どこにも矛盾はないのかもしれない。
自分ではない誰かから与えられる「社会的価値」に左右されることの無い、「ただ存在する自分」の価値付けを、誰の手にも委ねずに、自分自身で認め受け入れようとする在り方を示し続けることには、そういう価値観を身をもって提示するという、社会的な価値が結果的に生まれるのではないかと。

ここまで書いて、ちょっと、自分でもよくわからなくなってきた。
「こいつは一体何を言っているんだ・・・!!!」その反応にはとても納得がいきます。
でも、とにかく、もし自分が自分で在り続けることが、直接的ではなかったとしても、誰かの日常を少しでも彩ることができるのだとしたら、私は、ただシンプルに、「しない・できない」をまるっと含んだ私で在ることを、しよう。

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