「明日死ぬつもりで今日を生きる」と心身がもたないケースについて

「明日死ぬつもりで、今日を生きろ」

系の名言に感銘を受けている訳ではないのですが、どうやら放っておくと自然と自らに余命宣告をしてしまう性分なようで、

「私、あと1ヶ月の命なんだ」
「きっと、もう、次の朝目覚めることはないの」

等と映画のワンシーンさながらに脳内一人劇を繰り広げる毎日です。観客はいません。

正直なところ、できることなら日々の生活で「死」を意識せずに生きたい。
当たり前のように朝がきて、大切な人達に囲まれて、悲しいことも辛いこともあるけれど、泣いて笑って時を過ごすことが、ずっとずっと、いやずっとと言わずともせめてあと30年くらいは続いていくと、疑うことなく生活したい。

なのにどうして、私は悲しい物語のヒロインを日々演じなければならないのか。いや、決して演じている訳ではありません。本人(私)は本気ですし、そうだと信じきっているので、まさにそのヒロインの人生を生きていることになります。本当に命の危機にさらされている人達に失礼だと思われるかもしれませんが、その時の私は、まさにその危機にあり、だれもそれがただの思い込みだなんて言えないと思うのです。私は死を覚悟した次の朝に、驚く程何事も無かったかのようにあっけなく目覚めるのですが、その前夜に私が向き合った「もう目覚めることのない私」は現実として存在していた訳です。伝わりますでしょうか。


余命宣告の自己生成

そうしますと、現実として、私は毎日のように、命の危機に晒されていることになります。それも実際に車にひかれそうになったり、医者に不治の病を宣告されたり、殺人犯に脅迫されたりするという外的な要因を必要とすることなく、マイワールド内において余命宣告の自己生成を誰に頼まれるわけでもなく繰り返している訳です。

これがなかなか大変で、日々壮大なドラマを誠に勝手ながら生きることになるので、心身共に疲れ果ててしまうのです。

「もうこの道を歩くのも、雨を冷たいと感じるのも、好きだったドーナツを食べるのも、これが最後なんて悲しいな。あの人と一緒にご飯食べる約束をしたのに、果たせなかったな。一緒に踊りたい人も沢山いたし、もっともっと生きてこの世界に爪痕を残したかったのに。私が死んだら、あの人は悲しむだろうか。家族を失望させてしまうかな。なんだか、先立つなんて申し訳ないな。職場の人には迷惑をかけてしまうだろう。でもきっと、皆1ヶ月もしないうちに、日常を取り戻すんだろうな。死ぬ瞬間を、私はどう迎えるんだろう。病院か、部屋か、それとも駅のホームで倒れて人だかりの中で息を引き取るんだろうか。心臓が止まるのと、意識が消えるのの間にはどのくらいの時差があるのかな。火葬されるのは怖いけど、きっとその頃に意識はもうないから大丈夫か。本当に意識はなくなるのかな。なくなってなかったら困るな。骨になった姿を見られるのなんだか恥ずかしいけど、焼かれずに腐るのはやっぱり嫌だから焼いて欲しい。」

等と思いを巡らせることに膨大な時間を割くことになるのです。想像力の限界に挑戦するかのごとく、様々な死に様パターンを想定しつづけるのです。どう考えても、疲れます。


死の予行練習

ではなぜ自分で望みもしないのに、私はそんなことを日々繰り返すのか。
これは憶測でしかないのですが、私はそうすることによって、予行練習をしているのだと思います。死ぬ予行練習です。

私は、想定外のことがなによりも怖い。特に自分にとって不都合な「予想外」が起きると、血の気が引き、猛烈な恐怖と不安が押し寄せる現象が引き起こされます。特に「死」というのは必ず誰にも訪れるものでありながら、どのようにその時を迎えるのか、そしてその時を迎えた後にどうなるのかを予め想定することが極めて難しいものです。

それはもう、怖い。恐怖の極みです。

そんな恐怖の対象に自分がどう対応すべきかの予行練習を、想像力の限界に挑戦しながら日々行うことによって、実際にその時を迎えたときのダメージを、少しでも軽減しようという浅はかな魂胆なのでしょう。しかし、確かにその時のダメージは少しは軽減されているかもしれないのですが、私の「生きている日々」が全て「死を考えること」によって消費されていくと考えると、なんだか馬鹿馬鹿しくなってきますし、なにより心身がもちません。

命の危機なので、精神と肉体のフル装備戦闘モードのスイッチが入りっぱなしになり、いつ本番がくるかわからないイベントの予行練習に全力投球するのです。すると脳内劇場で私のただでさえ枯渇しがちなエネルギーを使い果たすこととなり、今、目の前で起きていることを蔑ろにしかねませんし、「死」以外のことに集中して取り組むことが難しくなります。こいつは、困ります。


S__4202771
画像ないと文字ばっかりで見た目が辛いからって死ぬこととか一切考えてなさそうな画像をぶっ込むのやめろと思いながら選んだセルフポートレート@代々木公園

名言の本意にたどり着けない

「明日死ぬつもりで、今日を生きろ」

これは「明日死ぬかもしれないから、想定されうる全ての死に様パターンをイメージして恐怖に怯えながら今日を生きろ」という意味ではありませんよね。私だってそのくらいわかってますよ。

本来は「明日生きている保証なんてなくて、実は今生きていること自体がとても尊くて、当たり前じゃないことを知った上で、あれこれなんとなく先延ばしにすることなく、自分の意志に問いかけ、やりたいことを精一杯やりながら、今日を生きろ」という感じのことなんでしょうかね。きっと。

名言の本意にたどり着けていない前者(私)と、名言を実体験から繰り出した人々では、一体何が違うのか。

「未来」に起き得る不確定なあれこれに「頭の中」だけが集中しているのが私。
未来を見据えて「今ここ」で何をするかという「行動」に集中しているのが名言の人。

ええ、わかっております。わかっているのに、できないんですよね。悔しい。あー悔しい。


暴れる怪物は皿の上にのせる

そんな脳内版『死に様百科事典』を豊かにするやや生産的にも思える活動に歯止めが効かなくなった時はどうしたらいいのだろうか。

私の場合は、この不安と恐怖をなんらかの形でアウトプットすることによって、無限に生成され、繰り返しイメージされることによっていつしか強固なイメージとして現実味を帯び過ぎてしまった「死に様」達を、一旦空想の世界の出来事であると認識することが必要なようです。その方法は言葉にしてみることであったり、その時に響く音楽を聴くことであったり、身体で表現することであったり、涙を流すことだったりする。

これは死ぬことに対する不安に限ったことじゃない。あらゆる未来の不安は、頭の中でループさせる度に、現実味を増しながら、着実に私たちの「今」を蝕んでいきます。その不安や恐怖を自分が扱えるようにアウトプットして観察すること。まさに、今私が、こうして文章にしているように、頭の中で暴れ回るコントロール不能に思える怪物を、ひょいとつまみ出して目の前の皿の上にのせ、ナイフとフォークを両手に握り、どこから手をつけてやろうかとまじまじと眺める、そんな感じで。

「あぁ、それは確かに怖いね」
「そのパターンはあり得るけど、正直それが起きる確立はかなり低いと思う」
「楽しみな予定があるから、それを無事に迎えられるかが不安なんだな」

等と、皿の上に乗せてみると、色々なことが見えてくる。そして見えてくると、今、自分が何をすべきかも、少しずつ見えてくる。


心身がもたない場合は、怪物コレクションを

「ひょいとつまみ出して」とか軽々しく言いましたが、この「ひょいと」は本来、全力で脳内に居座ろうとする粘着質で重量感溢れるやつを血管浮き上がらせながら引きずり出す作業だったりもするので、力強い協力者や、その戦いの中で負った傷の処置をしてくれるナース的な人が必要になると考えております。

皆、多かれ少なかれ、怪物を抱えて生きている。
自覚的な人も、無自覚な人も。あんまり悪さをしない怪物が数匹しかいない人もいれば、種類も数もコレクション豊かで常に暴れ回っているのを抑えるのがギリギリな人もいる。そのどちらが良いとか悪いとかではなくて、せっかくなので脳内に一人抱えておかずに、だれかと一緒にコレクションして共有しながら、ショーケースに並べていったらいいんじゃないかと、思うのです。日本人は怪物集めるの大好きですしね。そうすることで、ただの危険な怪物も、おもしろおかしく脚色したり、楽な取扱い方法が確立されていったりして、自分の中に怪物がいること自体を否定することなく、自分の一部として認め、向き合うことが可能になるのではないかと

力強い協力者とは、自身に住み着く怪物に自覚的であり、数々の戦いと敗戦を通して、傷の処置方法についても詳しくなった、痛みを知る人々である。そんな怪物コレクター達と、その表現に出会うことで、少なくとも、私は、救われるのです。

私にはこんなへんてこな怪物も、こんなやばい怪物も住んでいます。
あなたの中にはどんな怪物が住んでいますか。
ちょっと、見せてくださいよ。あ、私にもそいつ、います。
うわ、それ、レアなやつじゃないですか。
どうやって手なずけていらっしゃるんですか。
そいつはなかなか手強いですねぇ・・。

そんな対話をしている内に、未来のことは少しずつどうでもよくなってしまうのだから不思議です。ラスボス級のとんでもない怪物だと思い込んでいたものが、案外雑魚だったみたいな、そんな実感と共に、心身の健康を促進したい。いや、健康促進とまではいかなくても、せめて「今ここ」に集中できる程度にエネルギー消費を抑えたい。いやいや、あわよくば、全エネルギーを「今ここ」につぎ込んで、あの名言の真意にたどり着きたいところであります。冬の間死ぬことばっかりひたすら考えていたので、今年初花見を機にMY怪物、出してこうと思います。以上。

なんだか馬鹿馬鹿しくなってくるでしょう。見ないようにするんじゃなくて、よく見てみてごらん。ほら、今抱えている悲しみも、不安も、全て全て、作り出した本物で、全て全て、ただの妄想なのよ。

曲:『あしたあさって』ー日食なつこ
踊り:富永眞衣

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