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Conadona

もう魔法は 解けてゆくよ

音楽:『Conadona』 – VOQ
踊り:富永眞衣

2018/08/06

無花果

ふと子宮に還るイメージをする。きこえる。遠くで誰かがささやく。誰も私を傷つけたりしない、私も誰に牙を剥く必要もない世界だ。幻想。それは現実とはかけ離れた、守られた世界。もしかしたら死も、同じなのかもしれない。外界との関わりを一切断って、眠る。それはどこよりも安心で、安全で、悲しい世界。何者でもなくなりたい。そしてそのまま生きて、何者になることもなく、死にたい。

音:Kadan – 『無花果』
人:富永眞衣

2018/6/14

貼られた値札を剥がして眺めて捨てる

7月に入り、職場環境が大きく変わった。環境が大きく変わると、私はそれまで以上に無能になる。無能を思い知る度に、私は何者かになろうとする。愚かだなと思いながらも、私は何者かであることに安心感を求めている。何者かになることで、この場に存在することを許してもらえると信じているのだ。それと同時に、認められたり賞賛されたりするのが怖い。それは弱い私に、自分が何者かであるかのような錯覚をもたらしてしまうから。何かができる自分。何かを成し遂げる自分。誰かより優れた自分。誰かとは違う特別な自分。そうじゃない。


RCWW_FB1友人の勧めでWendy WhelanのRESTLESS CREATUREを観た。
これまで当たり前にできていたことができなくなっていくこと。所属先を失って自身の存在自体が危機にさらされること。全てを犠牲にして人生をかけてきたものをあっけなく失うこと。ずっと自分を定義していたものを奪われていくことは恐ろしいに違いない。それでも踊ることをやめなかった。やめられないのかもしれない。なぜなんだろう。どうしてそこまでして、バレエを手放ししてでも、彼女は踊ることを選んだんだろうか。

しがみつくことはきっとかっこ悪いことじゃない。全てが上手くいっていた、素晴らしいあの頃の私に戻りたいと願うことは、きっと自然なことなんだ。結局踊ることは、自分を定義する、自分を何者かに足らしめるための道具じゃなかった。踊る能力が人を定義するのではなくて、ただ何者でもない人間が踊る。踊らざるを得ないから、踊る。踊るって、なんだ。これを踊りと呼んでいいのかわからない。それでも踊る。一体誰がそれを無価値と言えようか。例えクズのように扱われても、なにそれ気持ち悪いと、言われても、これは大事な、蔑ろにされてはいけないものなんですと。


クズのように扱われるのに慣れてしまうのは恐ろしいこと。クズだと思われて、クズですみませんでしたと頭を下げてしまうのは、とてもとても恐ろしいことだ。だれかに自分をクズのように扱わせることを容認してはいけない。そして同じように誰かをクズのように扱う自分自身を容認してはいけない。それはとてもとても勇気のいることだけれど。私はもしかしたら現代社会において役に立つ・立たないの基準で言えば本当に役に立たないクズのようなものかもしれない。ならば役に立たないものは、いわゆる社会的にクズと認定されるようなものは、消えなければいけないのだろうか。今この状況で不要となったものは、全て、消えなければいけないのだろうか。今この社会で有用だと認めらなければ、存在すら否定されて当然なのだろうか。

無能で薄汚れた自分。そんなことないよ、という慰めはきっと無意味だ。有能で美しいと認定されれば存在を認めてもらえるのであれば、私はまた認定されるための努力をし続けなければいけないのだから。誰に?一体誰が私の存在を認める権利をもっているというのか。誰にも認定されたくなんてない。誰にも自分の価値をつけられたくなんてない。これほどまでに勝手な価値付けに嫌悪しているにも関わらず、無自覚に他者に値段を付けてジャッジする自分自身に出会ってしまうから、心底幻滅するんだ。あぁ結局私も同じじゃないかと。

どうしてこうなったんだろう。どうして値段をつけ合わなければいけなくなったんだろう。能力で、有用性で、人の命に当たり前のように外側から値札をつけるようになったのは、いつからなんだろう。すっかり慣れてしまった。そうして消費されること、消費することに、すっかり違和感を抱かなくなってしまった。抗いたい。どうしようもない、輝きすら無い、無価値に思えるものたちに、外側からの価値付けから離れて、ただただ在ることの尊さを信じたい。他人の基準で勝手に貼られた値札を剥がして眺めて「一体これ、何の話?」と言いながらゴミ箱にいれられるくらい堂々としていたい。綺麗事だと言われても、そうすることでしか、自分の生を肯定できないのだから、崇高な志というよりは、個人的死活問題なのです。


ふと子宮に還るイメージをする。きこえる。遠くで誰かがささやく。誰も私を傷つけたりしない、私も誰に牙を剥く必要もない世界だ。幻想。それは現実とはかけ離れた、守られた世界。もしかしたら死も、同じなのかもしれない。外界との関わりを一切断って、眠る。それはどこよりも安心で、安全で、悲しい世界。何者でもなくなりたい。そしてそのまま生きて、何者になることもなく、死にたい。

Now And Then

自分の気持ちというものがまるでわからない。
その場では痛いことに気づけないくせに、帰ってご飯食べてシャワーを浴びた時に、やっと沁みる生傷に気づいて酷く痛がる。そんな鈍臭さ。

音:Now And Then – Adele
踊り:富永眞衣

2018/06/07

『koten』を終えて

kotenにお越しくださった方々、そして、来れずとも応援してくださった皆様、誠にありがとうございました。私にとっては一大イベントだったはずなのですが、日常生活の方もなんだか大変だなぁ・・必死、等と思っている間に1週間が過ぎてしまっていました。ご挨拶が遅れまして失礼いたしました・・。

今回のkotenは一見特に綺麗でも凄くもない。常人には到底できない大技もとくにない。極めて個人的で、取るに足らない、ちょっと見るのも恥ずかしくなるような部分が多かったと思います。惨めで、ダサくて、かっこ悪くて、目をそらしたい瞬間だってあったかもしれません。

なぜそんなものをわざわざ人前でやる必要があったのか。
一歩間違えたら私はただの笑い者でしょう。一歩間違えてなくてもそうかもしれません。それでもいっそ笑われてやろう。私は、私の大切なものを、大切だと言い続ければいい。なーーんて頭の中で考えるのはごく簡単でしたが、実際のリハーサル中はかっこ悪く思われたくない自分の強烈な自意識との戦いが繰り広げられる訳です。「表現」という一見素敵な枠組みに含まれる、潜在的な暴力性や、独りよがりに容易に陥ることのできるその構造に、お手上げ状態でもありました。

方程式を手放すこと。観る人の思考を侵蝕しないこと。感覚を思考で塗り替えてしまわないこと。湧いてくる以上のものを出そうとしないこと。気づけばやりたいことよりも、やりたくないことが増えていました。後半戦は、ひたすら削り続ける日々だったように思います。最終的に残ったものは、消去法の末の、残りカスみたいなものだったのかもしれません。

我に返ると、なんだかやっぱり恥ずかしい気もしてきます。こんな姿晒して、馬鹿にされただろうか。ひそひそ笑われるの、本当は怖いし大嫌いなのです。実際のところどう受け取っていただけたのかはわかりません。それぞれ受け取るものは違って当たり前ですし、好き嫌いだってあるでしょう。怖くて仕方がありませんでしたが、それでも終演後に頂いた暖かいお言葉の数々に、ただただ救われる思いでした。本当に、ありがとうございました。でももし、ここで暖かい言葉をもらえなかったとしても、私はこれからも大切なものを大切だと、言い続けなければならない。そんな気もしています。

ダンサーの方も、そうでない方も、古くからの友人も、全くの初めましての方も、今、生きて日々生活をしているということ。共有すべき点は、そこだけだったように思います。ただの無名な人間が、ただ1時間、ただ踊るだけの場。お立ち会いいただき、ありがとうございました。これからも、日々生活してまいります。貴方の生活にも、よろしければ今度お邪魔させてください。



special thanks:

【たるたにあき様】当日の音響、写真撮影、会場設営。
人一倍私を気にかけて声をかけてくださり、ありがとうございました。下らない提案も、謎の撮影大会も、頭の中いっぱいいっぱいでこんがらがりがちな私に、ふっと空気を入れてくれました。うっかりミスで有名なのに(失礼)、細かな音量調節まで責任もってこなしていただき、本当にありがとうございました。私が樽谷さんに音響をお任せしたのには、理由があったのだなと、終わってから強く実感いたしました。お世辞いわないところも、信頼しています。

【カマチエリカ様】当日の受付、写真撮影、会場設営、パンフレット協力。
カフェムリウイを紹介してくださり、誰よりもこの場で個展を開くことを喜び応援してくださったのはカマチさんだったと思います。当日も長時間お手伝いいただき、パンフレットの一工夫で悩んでいた私に、さすがデザイナー・・というアドバイスをくださったりしまして、本当に助けられました。嘘をつかない人だからこそ、私も誠実でいたいと、そして信頼できる人に囲まれて本番を迎えられたことが何よりも恵まれたことだったと思います。心から、ありがとうございました。

【ムリウイのたけしさん】会場提供、設営、照明。
個人的にすでに色々お伝えはしていますが、今回この企画はたけしさんの半ば強引な(笑)後押しがなければきっと実現していませんでした。人の背中を押すのが仕事と言っていたたけしさんの言葉は、本当でした。自分を信じられない私に時に寄り添い、時に喝を入れ、最後まで見捨てること無くサポート下さり、それなしに当日を迎えていたら、きっと全く違うものが出来上がっていた気すらします。あまりに深い考察と鋭い指摘に、何度もこの人は一体何者なのだ・・と困惑させられ、即興のパフォーマンスだったにもかかわらず、当日の照明オペがあまりに臨機応変で作中に声を出して喜んでしまうこともありました。本当に、お世話にしかなりませんでした。ありがとうございました。これからもお世話になります。



※最後にお知らせ

なんと、ムリウイの新企画に今回の私の公演名「koten」を使ってくださることになったのです・・・!企画内容のイメージにぴったりとのことで、使っていただくことになりました^^私も何らかの形で関わる予定ですので、日の目を浴びることの無い小さな作品をお持ちの皆様、どうぞご一読、そしてご応募をお待ちしております!
http://www.ne.jp/asahi/cafe/muriwui/events/koten.html

『koten』

『koten』 ― 富永眞衣 solo exhibition個展(solo exhibition)

部屋干しの服です。乾いた後、イスの背もたれに丁寧に重ねられた服達は、時を重ねると共に地球の重力と私の背圧により深くシワが刻まれ、いざという時に着れたものではありません。でも昨晩水につけっぱなしで放置した食器達は、時を重ねたおかげでカピカピになった米粒の残骸が柔らかさを取り戻し、洗いやすくなってよかったわと思っています。そういえば関係ないですが、私の部屋には、ゴミ箱が無い。

切り取る。世界をよいしょと切り取ると、それだけで、世界はあっという間に、私のものになる。私のものになった世界を、一つ一つ並べていくと、その世界はまた、誰かに切り取られて、誰かのものになっていく。切り取って、並べて、みる。私の目で、誰かの目で。切り取ったものを切り取ってまた並べて切り取られて切り取ってって、ただただ切って切って切りまくってるだけなのに、切り取る位置が1mm違うだけで、切り取る角度が0.3度違うだけで、例えそれが取るに足らない小さな何かだったとしても、とても独創的なものだと思うのです。

切り取った世界を並べて、個展をひらきます。展示物は、身一つです。

[koten]は無事終演致しました。当日ご来場下さった皆様、応援してくださった皆様に、心より感謝申し上げます。またどこかで、お会いできる日を楽しみにしております。

  • 日時:2018.06.17(sun) 19:00 open 19:30 start
  • 場所Cafe MURIWUI(小田急線「祖師ケ谷大蔵駅」より徒歩7分)
    ・「おとなこども歯科」という不思議な名前の歯医者さんの上(3F)です。
    ・窓からの景色が綺麗な、小さなカフェです。(定員30名)
  • 入場料:2,000円
    ・入場料には500円分のお飲物1杯がついていますので、どうぞお楽しみに。
    ・しかし残念ながら当日お食事のご用意はございません。お腹が空いてしまうかな。
  • ご予約:下記フォームよりご予約下さい。
    ・こちらからの返信を持ちましてご予約完了とさせていただきます。
    ・24時間以内に返信がない場合は、大変お手数ですが①お名前②ご希望枚数を明記の上、【contact@maitominaga.com】へ直接ご連絡下さい。※現在ありがたいことに満席となっております。引き続きお申し込みの受付はしておりますが、キャンセル待ちでのご案内となりますこと、ご了承下さい。