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貼られた値札を剥がして眺めて捨てる

7月に入り、職場環境が大きく変わった。環境が大きく変わると、私はそれまで以上に無能になる。無能を思い知る度に、私は何者かになろうとする。愚かだなと思いながらも、私は何者かであることに安心感を求めている。何者かになることで、この場に存在することを許してもらえると信じているのだ。それと同時に、認められたり賞賛されたりするのが怖い。それは弱い私に、自分が何者かであるかのような錯覚をもたらしてしまうから。何かができる自分。何かを成し遂げる自分。誰かより優れた自分。誰かとは違う特別な自分。そうじゃない。


RCWW_FB1友人の勧めでWendy WhelanのRESTLESS CREATUREを観た。
これまで当たり前にできていたことができなくなっていくこと。所属先を失って自身の存在自体が危機にさらされること。全てを犠牲にして人生をかけてきたものをあっけなく失うこと。ずっと自分を定義していたものを奪われていくことは恐ろしいに違いない。それでも踊ることをやめなかった。やめられないのかもしれない。なぜなんだろう。どうしてそこまでして、バレエを手放ししてでも、彼女は踊ることを選んだんだろうか。

しがみつくことはきっとかっこ悪いことじゃない。全てが上手くいっていた、素晴らしいあの頃の私に戻りたいと願うことは、きっと自然なことなんだ。結局踊ることは、自分を定義する、自分を何者かに足らしめるための道具じゃなかった。踊る能力が人を定義するのではなくて、ただ何者でもない人間が踊る。踊らざるを得ないから、踊る。踊るって、なんだ。これを踊りと呼んでいいのかわからない。それでも踊る。一体誰がそれを無価値と言えようか。例えクズのように扱われても、なにそれ気持ち悪いと、言われても、これは大事な、蔑ろにされてはいけないものなんですと。


クズのように扱われるのに慣れてしまうのは恐ろしいこと。クズだと思われて、クズですみませんでしたと頭を下げてしまうのは、とてもとても恐ろしいことだ。だれかに自分をクズのように扱わせることを容認してはいけない。そして同じように誰かをクズのように扱う自分自身を容認してはいけない。それはとてもとても勇気のいることだけれど。私はもしかしたら現代社会において役に立つ・立たないの基準で言えば本当に役に立たないクズのようなものかもしれない。ならば役に立たないものは、いわゆる社会的にクズと認定されるようなものは、消えなければいけないのだろうか。今この状況で不要となったものは、全て、消えなければいけないのだろうか。今この社会で有用だと認めらなければ、存在すら否定されて当然なのだろうか。

無能で薄汚れた自分。そんなことないよ、という慰めはきっと無意味だ。有能で美しいと認定されれば存在を認めてもらえるのであれば、私はまた認定されるための努力をし続けなければいけないのだから。誰に?一体誰が私の存在を認める権利をもっているというのか。誰にも認定されたくなんてない。誰にも自分の価値をつけられたくなんてない。これほどまでに勝手な価値付けに嫌悪しているにも関わらず、無自覚に他者に値段を付けてジャッジする自分自身に出会ってしまうから、心底幻滅するんだ。あぁ結局私も同じじゃないかと。

どうしてこうなったんだろう。どうして値段をつけ合わなければいけなくなったんだろう。能力で、有用性で、人の命に当たり前のように外側から値札をつけるようになったのは、いつからなんだろう。すっかり慣れてしまった。そうして消費されること、消費することに、すっかり違和感を抱かなくなってしまった。抗いたい。どうしようもない、輝きすら無い、無価値に思えるものたちに、外側からの価値付けから離れて、ただただ在ることの尊さを信じたい。他人の基準で勝手に貼られた値札を剥がして眺めて「一体これ、何の話?」と言いながらゴミ箱にいれられるくらい堂々としていたい。綺麗事だと言われても、そうすることでしか、自分の生を肯定できないのだから、崇高な志というよりは、個人的死活問題なのです。


ふと子宮に還るイメージをする。きこえる。遠くで誰かがささやく。誰も私を傷つけたりしない、私も誰に牙を剥く必要もない世界だ。幻想。それは現実とはかけ離れた、守られた世界。もしかしたら死も、同じなのかもしれない。外界との関わりを一切断って、眠る。それはどこよりも安心で、安全で、悲しい世界。何者でもなくなりたい。そしてそのまま生きて、何者になることもなく、死にたい。

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